● 桜井凧
 安城市桜井町一帯で製作されている桜井凧は、元禄年間(1688〜1703)に名古屋から西端(現碧南市西端町)に伝えられたものが祖だと考えられます。このため、構造が名古屋古流凧に似ていますが、形態は複雑に、色彩は鮮やかに発展させています。
 農家の農閑期の副業として製作され、室内装飾用としても珍重されました。全体として凝った形態のものが多く、天神は日本で唯一という左右非対称の凧です。

●最後の桜井凧職人といわれた岩瀬良吉氏への聞き取り調査から
 
桜井凧と凧市
 
岩瀬良吉(桜井凧製作伝承者) 大正14(1925)年〜平成15年(2003)

生い立ち
 私が凧作りを始めたのは、桜井(当時は碧海郡桜井村)の高等小学校を卒業してからで、ホンヤ(本屋=実家)の父(岩瀬仙次郎)を手伝いながら、見よう見まねで作っていました。その後、私が23、4才の時にこの家へ養子に来たのです。義父(岩瀬福松)も凧を作っていましたが、跡取りがいなかったので、「凧をやらんか」というわけでこの家へ来ました。ですから、それまでは弟の仙松(岩瀬仙松 故人)とともに父の下で凧を作っていたのです(1)。

屋号について
仙松の所は、父が仙次郎といったことから「凧仙」、私のところは養父が福松といったので「凧福」という屋号を名乗っていました。ちなみに、仙次郎以外にも、仙之助、仙次郎という兄弟がいて皆凧を作っていたのですが、3人とも「凧仙」です。ですから、養父は自分の名前に「仙」の字がつかないことを少々ひがんでいたように思います。名前のことですから仕方ないですけれどね。
ただ、この4家は兄弟でしたが、お互いに凧を作っていたのでライバル意識というものがありました。

凧作りの季節
 私のところで凧を作るのは、農業をやりながらですので、農閑期になります。養父も同じでした。ただ、父と仙松のところは凧作り専業で、年中凧を作っていたのですね。
まず、米を作っている春から秋の半年間に、少しずつ竹を割って準備しておきます。稲刈りが終った秋から、竹を組んで、紙を貼って、色を付けるといった本格的な凧作りにかかります(2)。
 卸し用に作るのは、忙しいのはお正月前までで、正月になったら一段落です。正月過ぎたらあまり売れませんでしたのでね。それでも忙しい時は、家族総出で凧を作っていました。夜中まで、夜なべ仕事をしてね、完成し製品となった凧がある程度の量まとまったら、凧問屋(凧茂商店 名古屋市西区)に卸すのです。
 戦後の一時期は子ども用のおもちゃがなかったので、作っては凧問屋に卸し、さらに作っては卸しと、とても忙しくしていました。この頃は、「袖もの」(袖凧)よりも粗雑な「1枚もの」(1枚凧)(3)を多量に作って卸していたのです(4)。人手が足りないので、近所の子どもたちに駄賃を払って手伝わせていたりしていました。袖ものは難しいし、時間もかかるのですが、1枚ものなら簡単だからね。

材料
 凧に使う紙は、現在でも岐阜から美濃紙を取り寄せています(5)。竹は、近所の真竹を使っています(6)。割ってから乾燥させます。顔料は、西尾の顔料店から購入していました。以前は顔料を塗るために膠を溶いて使っていましたが、最近ではネオカラー(ポスターカラー)を使っているので膠は必要ありません。(7)

縁日用の凧
 正月明けになると、今度は縁日用に凧を作りました。こうした凧は、天神さんとか(8)、蓮如さんとか(9)、不動さんとかに(10)、主に露店を立てて売っていました。それから、熱田さん(熱田神宮)にも正月3が日と、5日の初恵比須に売りに行ったこともあります。縁日といっても、私の家は農業もやっていたので、凧を売るに出かけていたのは冬から春の縁日だけです。ですから、縁日で売るといっても、1年に3回から4回程度ではなかったのでしょうか。

蓮如さんの凧市
 なかでも最も大きかったのは、毎年3月の、西端(現碧南市西端町)の蓮如さん(蓮如忌)の凧市です。この時は、同じ凧を作っている同業者が、毎年5、6軒やってきていました。
私の家ではリアカーに凧と日用品などを詰め込んで、歩いて引いて行ったものです。その頃はまだ義父が生きていたので、主になっていたのは義父の方でした。蓮如さんでは、露店ではなく民家の離れを借りて、凧を屋内に展示して売っていました。ですから、売りに行くのは、3泊から4泊の泊りがけになりました。毎年出かけていくので、お借りする家は決まっていたのです。今でも覚えている人では、岩瀬の4家の他に、矢作の鈴木友松さんがいらっしゃいます(11)。鈴木さんは毎年みえていて懇意にしていましたが、小売専門でご自分では作られていません。ちなみに仕入先は仙松のところでした。
蓮如さんにお参りにみえられた方々は、そのお土産として凧を買っていきました。リアカーに大小様々な凧を詰め込んで行き、実際に売れたのは半分くらいだったでしょうか。

凧あげの時期
 こうして3月の蓮如さんで買った凧も、家の中に飾っておく人もいましたが、皆さん外で実際にあげていました。秋に凧を買ったなら、秋にあげていたのでしょう。凧は正月のものという感じが強いけれど、こうした縁日で買った凧は「凧はいついつのもの」というようなことはあまりなく、年中あげていたように思います。

天神さんの凧市
 また、天神さんにも露店を出し凧を売っていました。これは、毎年1月25日の初天神です。天神さんは習字の神様なので(12)、子どもがよく来ていて、帰りに天神の凧を買って帰っていきました。
 この時は、自転車の荷台に板をくくりつけて、ここに凧を乗せて行きました。岡崎はちょっと遠いので、自転車で行ったのです。もちろん日帰りでした。

凧の種類
 こうした縁日で売ったのは、もっぱら袖ものでした。袖ものの中では、福助が一番多く売れ、次にハチ、アブの順だったと思います。お参りに来たのだから、縁起のいい福助ということだったのでしょうか。
 大きい角凧は、歌舞伎とか武者とかを描いていましたが、彩色に時間がかかることもあって、作った数は、全体としてはごくわずかです。
 戦時中は、のらくろとか肉弾三勇士とかいったものが良く売れました。戦後は、これにマンガや時代劇が加わりました。いずれも作りが雑な1枚ものです。当時はものがなかったので、質よりも量といった感じで、雑なものでも売れていたのです。
 現在では、皆さん目が肥えているので、質が良くなければ買っていきません。それだけ豊かな時代になったのでしょうか。

凧の大きさと値段
 凧の大きさは、福助のような袖のあるものは、小さい方から「豆福」「小福」「中福」「大福」となり、角凧は、美濃紙を何枚使うかで、「4枚もの」「6枚もの」「7枚もの」「9枚もの」というように呼んでいました(13)。
 値段ですが、それぞれ大きさで決まっていて、中の大きさなら、中福(中の大きさの福助)でも中ハチ(中の大きさのハチ)でも同じ値段です。骨組みは福助よりもハチの方が複雑ですが、色は福助の方が手が込んでいるので、同じ値段にしていたのです。角凧も、大きさによって値段が決まり、絵柄は関係ありませんでした。
 最もよく売れた大きさは、袖ものでは中福でした。けれども、具体的に一年間にどれだけ凧を作ったのか、どれだけ売れたのかはわかりません。その当時は、そんなことを考えずに、ただ黙々と凧を作っていただけでしたので。

凧組合
 毎年9月には、凧屋組合の総会がありました(14)。ここでは、凧を作っている人と小売の人が集まって、その年に売る凧の値段を決めるのです(15)。卸値いくら、小売値いくらというように。決められた値段を見ると、小売値は卸の倍ですね。家では、「私たち作る方は、材料から何から一所懸命作っているのに、小売は仕入れて売るだけで儲かるとはいい商売だ」なんて言いあっていました。全ての商品というのは、そういうものなんですけれどね。
 こうした凧を作っている人たちの間では、昔から「恵比須 大黒」を信仰する習慣がありました。

その後の凧組合
 凧屋組合の人たちも、戦争と終戦後のごたごたで、一人減り、二人減りでだんだん少なくなっていきました(16)。以前凧屋組合に入っていて、現在も凧を作っているのは私のところだけになってしまいました。跡を継ぐ人もおらず、以前やっていた人で、現在も生きておられても70歳以上でしょう。

2001年7月27日、11月13日
安城市寺領町の自宅で聞き取り

岩瀬良吉氏


1:桜井凧の製作を始めたのは、良吉の祖父、岩瀬仙太郎である。それ以前に凧を作っていたかは不明である。仙太郎には、長男 仙之助、次男 福松、三男 仙次郎、四男 仙吉の4人の子どもがあり、4人とも凧を製作していた。縁日などには、4家揃って凧を売りに出かけていたという。この福松には子どもがなかったため、仙次郎の長男であった良吉が養子として赴き、家督とともに凧作りを引き継いだ。(島村博 1992) 注目すべきは、養子に来る以前、凧作りを覚えたのは岩瀬仙松同様、実父仙次郎の下であったという点であろう。

2:厳密な順序でいえば、組んだ骨に貼る紙には、ある程度彩色が施されている。「福助」【 】の場合、骨に貼り付ける前に大半の彩色がされているが、額を水色に塗る部分だけは、凧の「反り」の関係で、貼り付けた後である。こうした順序は、凧の種類によって大きく異なる。

3:美濃紙1枚の大きさの角凧。絵柄は、自家内で簡易的に印刷した。値段も、数ある凧の中で最も安価であった。この種類の凧に、美濃紙2枚分の「2枚もの」もある。

4:これらの発音を厳密に表記すれば、「ソデモン」「イチマイモン」になる。

5:岩瀬仙松への聞き取り調査では、紙は三河の森下紙と岐阜の美濃紙を使用し、いずれも「寒漉き」のものを選んだという。割合は約90%が美濃紙で、安定した入荷があったからという。(島村博 1992)

6:岩瀬仙松への聞き取り調査では、竹は東加茂郡足助町より奥でとれた竹がよく、以前は矢作橋と米津橋のたもとにあった竹屋から、後に岡崎市福岡町や幡豆郡吉良町の竹屋から購入していたという。真竹が適していて、柔らかすぎても硬すぎても不適だという。紙同様、「寒切り」の竹がよいとされていた。(島村博 1992)

7:製作工程については、複雑になるので聞き取りを行っていない。岩瀬仙松へ製作工程を聞き取り調査した結果は、報告書として公表されている。(島村博 1992)

8:岩津天満宮(現岡崎市岩津町)。最大の縁日は、毎年1月25日の初天神。

9:応仁寺(現碧南市西端町)。最大の縁日は、毎年3月下旬に開催される蓮如忌。

10:金蓮寺(現幡豆郡吉良町大字饗庭)。通称「饗庭の不動さん」。最大の縁日は、3月上旬(現在は第1日曜日)に開催される。

11:鈴木友松の名は、大正9(1920)年時の『凧屋組合同業規約名簿』にもみられる。お話によれば、実父である仙次郎と同年代だという。

12:現在では、学業一般の神として信仰されることが多い。

13:小さな角凧を「ションボケ凧」(ションボケ=肥桶)と呼ぶとされるが(比毛一郎 1997)、岩瀬によればそうした呼称はないという。

14:設立は大正9(1920)年1月30日。正式名称は、表題では「凧製造販売同盟」。
凧製造販売同盟規約(大正9年1月30日) 抜粋  *誤字は正字に改めた。
第弐條 凧製造販売同盟組合ハ、常ニ正義ヲ宗トシ、如何ナル事情アルモ独律ノ行動ヲナスヲ不得。
第四條 年行司ノ命令ハ堅ク相守リ違反スル事ヲ不得。
第六條 年行司ヨリ送付ノ文通代価表堅ク相守リ其代価以下ニ販売スル事ヲ不得。
第七條 卸小売共同盟組合年行司ノ認可ヲ不得シテ割引販売スル事ヲ不得。
第九條前條ノ規約ニ違反為シタル者ハ其物品代価ノ拾倍ノ金員ヲ組合違約謝罪料トシテ出金致ス事。
 (『凧屋組合同業規約名簿 大正九年一月三十日』【 】より。)
 初年度の年行司は、碧海郡新川町131番地(現碧南市新川町) 中野久吉が務めている。凧製作ではなく、小売を行っていた人物と考えられる。この内容を端的に表現するのならば、小売主導で価格カルテルを形成し、そこからの脱退を強く戒めたものといえよう。

15:『凧屋組合同業規約名簿 大正九年一月三十日』には、毎年定められた卸値、小売値が記されている。組合が結成された大正9(1920)年時点では、
 小福(福助の小さいもの) 卸:5銭、小売:10銭 / 中福(福助の中程度のもの)卸:6銭5厘、小売:13銭
 4枚もの(美濃紙4枚)卸:15銭、小売:25銭 / 6枚もの(美濃紙6枚)卸:23銭、小売:40銭

16:名簿による大正9(1920)年時点での凧屋組合の組合員は以下のとおりである。
碧海郡新川町131番地 中野久吉(年行司)  碧海郡明治村大字西端 杉浦宇右エ門(副)  碧海郡桜井村 岩瀬仙之助  碧海郡旭村字鷲塚 河原善之助  幡豆郡西尾町字桜 榊原兼三郎  幡豆郡平坂村 調子松太郎  幡豆郡平坂村 調子由三郎  幡豆郡西尾町 岡本伊太郎  岡崎市外鴨田 深津好松  碧海郡桜井村大字寺領 岩瀬福松  幡豆郡西尾町外町 三矢玉吉  碧海郡桜井村字藤井 岡田捨蔵  碧海郡矢作町大字北之 鈴木友松  知多郡阿久比村大字植大 若松屋廣吉  碧海郡桜井村字天神 酒井万吉  碧海郡桜井下谷 岩瀬仙次郎  岡崎市西町 鈴木菊市  碧海郡桜井村下谷 河合章  碧海郡桜井村下谷 岩瀬仙吉 以上19名である。
これが、規約名簿が一新された昭和2(1927)年では13名に減少していて、既にこの時点で市場の縮小と人員減少が始まっていたことを示唆している。逆に、凧屋組合が結成された大正9年時がその最盛期だったのではないだろうか