註
1:桜井凧の製作を始めたのは、良吉の祖父、岩瀬仙太郎である。それ以前に凧を作っていたかは不明である。仙太郎には、長男 仙之助、次男 福松、三男 仙次郎、四男 仙吉の4人の子どもがあり、4人とも凧を製作していた。縁日などには、4家揃って凧を売りに出かけていたという。この福松には子どもがなかったため、仙次郎の長男であった良吉が養子として赴き、家督とともに凧作りを引き継いだ。(島村博 1992) 注目すべきは、養子に来る以前、凧作りを覚えたのは岩瀬仙松同様、実父仙次郎の下であったという点であろう。
2:厳密な順序でいえば、組んだ骨に貼る紙には、ある程度彩色が施されている。「福助」【 】の場合、骨に貼り付ける前に大半の彩色がされているが、額を水色に塗る部分だけは、凧の「反り」の関係で、貼り付けた後である。こうした順序は、凧の種類によって大きく異なる。
3:美濃紙1枚の大きさの角凧。絵柄は、自家内で簡易的に印刷した。値段も、数ある凧の中で最も安価であった。この種類の凧に、美濃紙2枚分の「2枚もの」もある。
4:これらの発音を厳密に表記すれば、「ソデモン」「イチマイモン」になる。
5:岩瀬仙松への聞き取り調査では、紙は三河の森下紙と岐阜の美濃紙を使用し、いずれも「寒漉き」のものを選んだという。割合は約90%が美濃紙で、安定した入荷があったからという。(島村博 1992)
6:岩瀬仙松への聞き取り調査では、竹は東加茂郡足助町より奥でとれた竹がよく、以前は矢作橋と米津橋のたもとにあった竹屋から、後に岡崎市福岡町や幡豆郡吉良町の竹屋から購入していたという。真竹が適していて、柔らかすぎても硬すぎても不適だという。紙同様、「寒切り」の竹がよいとされていた。(島村博 1992)
7:製作工程については、複雑になるので聞き取りを行っていない。岩瀬仙松へ製作工程を聞き取り調査した結果は、報告書として公表されている。(島村博 1992)
8:岩津天満宮(現岡崎市岩津町)。最大の縁日は、毎年1月25日の初天神。
9:応仁寺(現碧南市西端町)。最大の縁日は、毎年3月下旬に開催される蓮如忌。
10:金蓮寺(現幡豆郡吉良町大字饗庭)。通称「饗庭の不動さん」。最大の縁日は、3月上旬(現在は第1日曜日)に開催される。
11:鈴木友松の名は、大正9(1920)年時の『凧屋組合同業規約名簿』にもみられる。お話によれば、実父である仙次郎と同年代だという。
12:現在では、学業一般の神として信仰されることが多い。
13:小さな角凧を「ションボケ凧」(ションボケ=肥桶)と呼ぶとされるが(比毛一郎 1997)、岩瀬によればそうした呼称はないという。
14:設立は大正9(1920)年1月30日。正式名称は、表題では「凧製造販売同盟」。
凧製造販売同盟規約(大正9年1月30日) 抜粋 *誤字は正字に改めた。
第弐條 凧製造販売同盟組合ハ、常ニ正義ヲ宗トシ、如何ナル事情アルモ独律ノ行動ヲナスヲ不得。
第四條 年行司ノ命令ハ堅ク相守リ違反スル事ヲ不得。
第六條 年行司ヨリ送付ノ文通代価表堅ク相守リ其代価以下ニ販売スル事ヲ不得。
第七條 卸小売共同盟組合年行司ノ認可ヲ不得シテ割引販売スル事ヲ不得。
第九條前條ノ規約ニ違反為シタル者ハ其物品代価ノ拾倍ノ金員ヲ組合違約謝罪料トシテ出金致ス事。
(『凧屋組合同業規約名簿 大正九年一月三十日』【 】より。)
初年度の年行司は、碧海郡新川町131番地(現碧南市新川町) 中野久吉が務めている。凧製作ではなく、小売を行っていた人物と考えられる。この内容を端的に表現するのならば、小売主導で価格カルテルを形成し、そこからの脱退を強く戒めたものといえよう。
15:『凧屋組合同業規約名簿 大正九年一月三十日』には、毎年定められた卸値、小売値が記されている。組合が結成された大正9(1920)年時点では、
小福(福助の小さいもの) 卸:5銭、小売:10銭 / 中福(福助の中程度のもの)卸:6銭5厘、小売:13銭
4枚もの(美濃紙4枚)卸:15銭、小売:25銭 / 6枚もの(美濃紙6枚)卸:23銭、小売:40銭
16:名簿による大正9(1920)年時点での凧屋組合の組合員は以下のとおりである。
碧海郡新川町131番地 中野久吉(年行司) 碧海郡明治村大字西端 杉浦宇右エ門(副) 碧海郡桜井村 岩瀬仙之助 碧海郡旭村字鷲塚 河原善之助 幡豆郡西尾町字桜 榊原兼三郎 幡豆郡平坂村 調子松太郎 幡豆郡平坂村 調子由三郎 幡豆郡西尾町 岡本伊太郎 岡崎市外鴨田 深津好松 碧海郡桜井村大字寺領 岩瀬福松 幡豆郡西尾町外町 三矢玉吉 碧海郡桜井村字藤井 岡田捨蔵 碧海郡矢作町大字北之 鈴木友松 知多郡阿久比村大字植大 若松屋廣吉 碧海郡桜井村字天神 酒井万吉 碧海郡桜井下谷 岩瀬仙次郎 岡崎市西町 鈴木菊市 碧海郡桜井村下谷 河合章 碧海郡桜井村下谷 岩瀬仙吉 以上19名である。
これが、規約名簿が一新された昭和2(1927)年では13名に減少していて、既にこの時点で市場の縮小と人員減少が始まっていたことを示唆している。逆に、凧屋組合が結成された大正9年時がその最盛期だったのではないだろうか